「哲学講義録」 思索の翼
Japanese Dream Realization



思索の翼
 「私の狗子仏性の公案解釈」
天川貴之



 仏教では、一般に「一切衆生悉有仏性」と説かれるが、趙州和尚は、「狗子(犬)に仏性は無い」と答えられている。これは、一見すると、形式的な仏教の教えに反しており、「仏に会うては仏を殺し、祖に会いては祖を殺し」を実践しているようにみえる。

 これは、基本的に、深層なる自由自在なる真理に帰依し、心奥なる仏に帰依し、心奥なる仏法を究め説いてゆきなさいということである。形式に執われず、真理の実相を究めてゆきなさいという一転語である。そして、徹底した自己信頼の立場である。

 それが、自由自在境に到るということであり、形式仏法と反対のことを説いても、仏道を成就しうるということである。そして、それは、形の上で、仏性「有り」と述べても、「無い」と述べても、根底にある真理を穿っていれば、真理たりうるということなのである。

 このように、本当の仏法とは、形式的仏法を超えたものなのであり、本来の仏の生命、真理の生命の一顕現として、釈尊があり、仏典があり、仏祖の語録があるにすぎないということなのである。故に、本来の仏とは何か、本来の法とは何かということを根本から問うてゆくことこそ、禅宗の本質であり、哲学の本質であるということが出来るのである。

 真理とは、本来広大無辺のものであり、それを自覚するが故に、自由自在境となることが出来るのである。故に、仏法の根本は、絶対無であるいうことも出来るのである。真理とは、形の奥にある無限定なるもの、絶対無なるものであって、仏典にしろ、聖書にしろ、その一面であり、あらゆる悟った人物の言葉もまた、その一面であるということが出来るのである。

 それを自得自知しているのが自己の本来仏であり、本来仏性である。自己が本来仏であるからこそ、形式的な外なる仏法に執われずに、一転語をもって、真なる仏法を説き、形式的な仏法をさらに止揚実成してゆくことが出来るのである。

 その意味で、形式的な仏法に執われず、その実相を絶対無の立場から自由自在に説法してゆくということである。これは、仏法にあって仏法を超えてゆく道であり、特定の道にあって大道をゆく立場であるといえる。

 釈尊というものも、それを補完する弥勒というものも、自己の内なる仏の生命と別個のものではなく、今、仏道を成就し、仏陀として法を説くことが出来るという立場を表明したものなのである。



〔 光明祈念歌 〕
絶対無
 
無限 の真理
内にあり
 仏の生命
 自由自在に
(貴)


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