理念情報

 「哲学的コラム」
Japanese Dream Realization



「詩と音楽と思想哲学について」



 古典の言霊というものは、格調の高い詩的表現となっているものが多い。仏典であっても、詩の言霊によって価値が裏うちされているものが多い。詩の形で表現された思想は普遍的に人々の心に響く。

 老子であっても、論語であっても、プラトンであっても、素晴らしい詩で創られている。自省録であっても、セネカの道徳論集であても、キケロの人生哲学であっても、素晴らしい詩で構成されている。一行一行が詩として完成しているからこそ、その思想内容が、より適切に伝わっている所も多い。

 思想が詩という形態をとることは自然であって、人工ではない。真なる思想というものは、精神の高尚なる営みというものは、本来詩的であり、美があるのであるということである。哲学は本来美しいのであり、本来芸術的なのである。

 思索する精神の軌跡は、本来、そのまま詩となることによって、その本来の理念(イデア)界にあることを証するのである。言葉が真実の詩ならば、真実の光があるといえるのであり、真実の光であるならば、真実の詩となるといえるのである。

 そして、それは音楽ともなるものなのである。詩に曲がつくように、哲学思想というものも、本来詩となり、本来音楽的にも表現されうるものであって、本来音楽にもなりうることによって、人々の心を直接に動かしてゆく力を発揮することも出来るのである。

 本来の詩の音楽性というものを活かして、思想哲学を表現してゆこうではないか。たとえ、地上の音楽の形をとらなくとも、本来音楽であるならば、哲学思想を生み育んでゆこうではないか。

 哲学思想のインスピレーションは、作曲の時の曲想とよく似ているのである。本来、天上から天降ってくるようなものである。本来的に調べをもっており、言葉が調べを創り出しているのである。

 J・J・ルソーの思想であっても、西田幾多郎の哲学であっても、本来詩であり、本来音楽である。言外にあるものが、言語の内にあらわされているのである。法則(真理)とは、本来、詩であり、音楽であり、人為を超えて実在するものである。

 宇宙の旋律を、一人一人の精神の内に幸えてゆくのである。



〔 光明祈念歌 〕
詩となった
思想の形
本来の
言霊のあり
音楽になる
(貴)



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