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|---|---|---|
| 「哲学的コラム」 | ||
| Japanese Dream Realization | ||
| 「真理と哲人の風格について」 |
| 真理を発見し、尊重してゆくことと、真理の一端を曲解してイデオロギー闘争してゆくこととは、基本的に異なる。真なる真理の探究というものは、議論にはなっても闘争にはならない。何故なら、本当の真理とは、自他一体に活かす法則の発見であり、探究であり、そこに、利害対立は本来無いものだからである。
真理が真理である以上は、永遠普遍の価値を顕しているものであるから、それが発見され、探究されてゆく過程は、万人にとって尊重されるべきものである。それが真理に対する礼節であり、真理を探究する者としての品格である。 真理というものは、本来品格を伴っているものであって、独特の不動の落ち着きがあるものである。それは、真理の本質が神の生命であり、天の御心であるからである。それ故に、真に真理を探究しておられる方には、真理の顕れとしての真善美聖の風格が生まれてくるものなのである。それは、自然に湧き上がってくる真理の功徳である。 その意味において、ヘーゲル哲学的な矛盾対立と止揚統合というプロセスは、本来真理の探究にふさわしい形で、品格をもって、生産的に、「和」の精神のもとになされなくてはならない。マルクスの真理闘争の姿勢にも、ハイエクの真理闘争の姿勢にも、本来の哲学者らしからぬ必要以上の排他性と偏狭さを感ずる。 そして、その背後に、価値(理念の体系)を見失った方に特有の虚無感に似たものを感ずる。それが時代的宿命といえばそれまでであるが、本来の哲人というものは、価値(理念の体系)から自然にこもれくる人徳の輝きが、その学問にも、人物にも、言動にもあるものである。 「十有五にして学に志す」であるとしても、少なくとも四十を過ぎれば、その方の学問と人物に相応の人徳と風格が滲み出してこなければ、本物の哲人とはいえない。真なる哲学と真なる学問の真理性は、自然な風韻となって、周囲に人格の香をただよわしてゆくものである。明治以降の日本の歴史には、そのような真の哲人が数多く実在されていたのである。 あらゆる面において、すべては善くなってゆくしかないのである。 |