![]() |
||
|
|
||
|---|---|---|
| 「哲学的コラム」 | ||
| Japanese Dream Realization | ||
| 「彫刻を通して顕れた理念(ロゴス)について」 |
| 「永遠」のローマの理念(ロゴス)は、様々なものの中に刻印されている。その一つの典型的な例が、彫刻と建築である。哲学や宗教だけではなく、芸術もまた絶対精神(神)の顕れであり、理念の顕れである。絶対精神(神)を、哲学や宗教を通して観ずる方もおられれば、芸術を通して観ずる方もおられるのである。
そして、主として芸術を通して絶対精神(神)を顕そうとしたものが、ルネサンス運動の本質であろう。ミケランジェロの彫刻は、彫刻を通して、神とは一体何であるのかを雄弁に語っている。ダビデ像なども、単なる特定の偉人のモニュメントというよりは、神的ロゴスとは一体どのようなものであるのかということを、積極的に大理石の中に顕しているものである。 それは、形をとって表現された理念そのものである。それは、裸体像の形式をとりながら、その中に神的魂を顕し、神的魂の生命の躍動を、肉体という客観的な形式の中に翻訳している。すなわち、神的ロゴスというものは、三次元を超えたものであると同時に、三次元の中に翻訳して顕すことも可能なものなのである。 人間の肉体というものは、本来神聖なものである。神聖なものとして観ずる方が観れば、神聖なものとして顕れるものである。ミケランジェロは、理念としての真善美聖を、一つのポーズの形を通して表現されようと試みられたのであろう。それは同時に、原罪以前の神の子人間の探究であり、煩悩以前の仏の子人間の探究であり、そこに、近代ヒューマニズムの原点があられたように思う。 復活されたイエス・キリストは、原罪以前の理念、煩悩以前の理念として表現される方がより適切であったであろう。ダビデ像は、我々にむしろ、我々の心の内にある罪と煩悩の存在を問いかけ、本来罪なき生命の実相、生命の理念、本来煩悩なき生命の実相、生命の理念へとルネサンスしてゆく力を有しているのである。 リアリズムの中に、高度な理念、個性的な理念を実現してゆくことは、単なるイデア論と単なる現実論を真に止揚した真なる理念芸術を、神々の生命の躍動として地上に顕してゆくことになるであろう。 古事記の神々が、生き生きとその理念を大理石等の中で語りだしたならば、限りなく西洋的なるもの、限りなくローマ的なるものと、限りなく東洋的なるもの、限りなく日本的なるものを止揚した一大光明芸術を育んでゆくことになるであろう。 あらゆる面において、すべては善くなってゆくしかないのである。 |