理念情報

 「哲学的コラム」
Japanese Dream Realization



「繁栄を活かす真理としての普遍哲学について」



 ストア哲学にみられるストイックな精神態度は、どこか武士道精神とも、西洋の騎士道精神とも、真髄において一致するものがある。それは、本来繁栄を否定するものではなく、単純に繁栄を肯定するものでもなく、繁栄を真に活かしてゆくためのものであろう。それが中道であり、中庸の精神である。

 ローマ帝国の権力も、財力も、地位も、様々なものが満ち溢れている方にとっては、その中に「道」をつけ、己が魂の「善」の松明を常に燃やしつづけておく必要があったのであろう。それでは、ローマのストア哲学が、キケロや、セネカや、アウレリウスのように、政治の中枢におられた方だけに通用したのかというと、そうではない。エピクテトスのように、政治的立場が、当時の奴隷の身分に置かれた方にとっても、心の糧、心の支柱たりえたのであり、エピクテトスは、そのような逆境の中においても、人類の知的遺産を遺され、それが、ヒルティの「幸福論」等を通して、実践的教育の道徳倫理の教科書ともなっているのである。

 そして、マルクス・アウレリウスの「自省録」についても、その多くが戦陣の中で、特に遠い異郷の地においてつづられたということは、通常の環境と比較してみても、逆境の渦中でなくて一体何であろうか。戦争に明け暮れていない時期のアウレリウス帝は、もっと朗らかで闊達であられただろうことは、想像に難くない。戦場に旅に出る前に、ローマ市民に対して公開哲学講義をされたということは、ローマ帝国と市民の一体感が洞察される。日本の国体のように、「君民一体」「君民同治」の哲理の実践が、そこに観じられるのである。

 確かに、秩序礼節の精神と、自由、平等、博愛の精神は、ローマ五賢帝の時代、特にアウレリウス帝の時代に、限りなく「真象」に近い形を顕わしたのであろう。アウレリウス帝をはじめとするローマの賢帝賢人達は、八百万の神々として、ローマの守護神であると同時に、世界の守護神であろうと心がけられていたし、ローマ市民の大半は、自然な感情として、畏敬の念を抱いておられたのである。数多くのレリーフが、今もなお、神々の実在を雄弁に語り伝え続けている。

 あらゆる面において、すべては善くなってゆくしかないのである。



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