理念情報

 「哲学的コラム」
Japanese Dream Realization



「美しい国のための感性教育について」



 知識中心の教育の中で、忘れがちなものが感性の教育である。フランス文化やイタリア文化に学び、さらに新生日本ルネサンスの潮流を創ってゆくにあたって心がけなればならないものは、洗練された感性をいかに磨いてゆくかということである。優れた感性というものは、優れた感受性から生まれる。優れた感受性とは、大和民族が古来より培ってきた文化の特質でもある。

 かの俊成の和歌にしても、定家の和歌にしても、洗練された究極の感性がなければ決して開拓できない世界であったであろう。感性の世界も、幅が広く、奥が深く、高みは富士の如く高峰である。そこには、知性の世界や、力技の世界とはまた違った厳しさが実在する。

 そして、本来知性の巨人や武道家の巨人に近づきがたい畏怖の念いを憶えるのと同様に、感性の巨人には一種の畏れを感じられなければ、むしろ感性の領域が磨かれていない証明になってしまうのである。

 幽玄の極みを尽くした和歌は、その一首にて一つの世界を創造し、一つの「結界」を創造し、そこに一つの「涅槃」を創造し、そこに一つの「神の国」を創造してゆく。一言一言の言霊の中に、音楽も、絵画も、彫刻も、建築も、小説も、戯曲も、人生も、世界も、歴史も、未来のビジョンも、すべてのものが込められている。そして、その一首が、あたかもインターネットのアドレスのように、異次元世界の時空へと我々の魂を誘われるのである。

 かの千利休の厳しさは一体何であろうか。かの世阿弥の厳しさは一体何であろうか。かの池坊の厳しさは一体何であろうか。かの伊勢神宮の「美」における厳しさは一体何であろうか。ここに、「美の結界」が生まれているからである。故に、畏れの心をもって「美」に対して慎まなければならない。畏敬の念の向こうに、果てしない「神の国」が実在するのである。

 あらゆる面において、すべては善くなってゆくしかないのである。



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