理念情報

 「哲学的コラム」
Japanese Dream Realization



「理念政治学と哲学的真理の意義について」



 政治哲学と政治評論の違いは一体どこにあるのであろう。政治評論の場合、生命が短いものでは一年も経てば誰も読まなくなるものが多い。同じテーマであっても、例えば千人の言論人がおられても、その言論が百年後にまで遺る方は十人居られないであろう。五百年、千年後にまで遺る方は皆無に近いであろう。それは、時空を超えたさらなる評論によって論破されて、その偽りの真理性が如実に分かるようになるからである。

 仮面を被った本物の真理であるのか、仮面だけが本物的で、その中身が偽物の非真理であるのか、それは自ずから時間が判定して、その本来の価値を示現してゆくものである。プラトンやアリストテレス、キケロやマルクス・アウレリウス等の政治哲学は、今もなお、新しさを失わない。それは、真理性があるからである。ロックや、モンテスキューや、ルソーや、カントや、ヘーゲル等の政治哲学は、今もなお新しさを失わない。そこにも真理性があるからである。

 真理とは、その時代、人物、歴史に応じて自由自在に応化してゆく深さと高さと広さを有しているものである。日本においては、天照大神や、神武天皇等の政治哲学が古事記等に描かれており、聖徳太子の業績の中にも政治哲学があり、近年では、谷口雅春も、歴史の風雪に耐えうる政治哲学を遺されている。

 「限りなく日本を愛す」の中で述べられている日本的国体論やプラトン的哲人王の思想や、神話の哲学的意義付け等に関しては、その価値が、新生日本の礎の一つとなった政治哲学として、再評価されてゆくであろう。その上で、自由、平等、博愛の精神と秩序、礼節の精神が「国のかたち」として止揚された国体哲学、「統合と個性の開花」「秩序と自由」が止揚された国体哲学は、西田哲学や安岡哲学と共に、新生日本ルネサンスの一大精神として永遠普遍の生命を保ち、様々な国に感化を及ぼしてゆくことであろう。

 「統合と個性の開花」「秩序と自由」の政治哲学は、アメリカにおいても、EUにおいても、フィリピンやタイやインドネシアやインド等においても様々に応用できる、現在進行形の新時代の政治哲学だからであり、ここに、時代精神、世界精神が顕れているからである。

 あらゆる面において、すべては善くなってゆくしかないのである。



このホームページのトップへ 


「理念政治学と哲学的真理の意義について」 に対するご意見・ご感想などございましたらご遠慮なくお寄せください。
ご意見・ご感想はこちらから