理念情報

 「哲学的コラム」
Japanese Dream Realization



「『名』と『形』を問う真なる哲学について」



 哲人の中には、正式な哲学論文を書いておられない方も多い。そもそもソクラテスは書物を遺されていない。日本では、安岡正篤も、中村天風も、正式な哲学論文を遺されていないが、偉大な哲人であることは、万人が認める所である。エマソンも、トラインも、ナポレオン・ヒルも、正式な哲学論文を遺されていないが、偉大な哲人である。

 そもそも哲学(フィロソフィア)というものの本質とは、一体何であろうか。それは「形」を問うことである。「名」を問うことである。かの老子のいわれる「道の道とすべきは、恒の道にあらず。名の名とすべきは、恒の名にあらず。」とは、哲人の精神態度でなくて何であろうか。

 それでは、一定の形式の哲学論文を書き、しかるべき方に認められ、学位を授与されてはじめて哲人となりうるのであろうか。かのショーペンハウアーも述べておられるとおり、真の哲学者というものは、実は人類史を貫いてごく少数である。一定の物事に対して、抽象的に思索しつづけてゆくということは、一万人に一人も実はできないのである。さらに全人類の哲学史に遺るような哲学者は、全西洋史を貫いても、実は二十名程であるともいえる。一つの時代に、一つの国家に、一人の真の哲人が実在するだけでも、歴史を調べてみれば稀有なことなのである。

 このように考えてゆけば、J・J・ルソーの「学問芸術論」の趣旨もよく分かる。J・J・ルソーからみれば、同時代の真なる哲人は皆無であったのであろう。もちろんJ・J・ルソーは、デカルトやベーコン、モンテーニュ等、同じく歴史を貫く哲人については、その存在価値を讃えておられるので、実は本当の哲学、本当の学問を肯定されているのである。しかも、「知徳合一」の道を解かれているのである。理性と良心と自然な宗教心が真髄において一致することを説かれているのである。その点において、J・J・ルソーは、「自然」をキーワードにして老子やソクラテスや神道に相通づる所がある。

 今日の哲学論文の定義からみれば、「形」や「名」の上では哲学論文とはいえないけれども、万人が真なる哲学博士であると認められることであろう。何故なら、ルソーの後に一体何万人、何億人の哲学博士が続いて研究されたことであろうか。

 日本においては、桑原武夫を始めとして、京都人文研の伝統と業績は世界に冠たるものである。このように、真なる哲人は「名」「形」を超えて哲学博士の哲学博士であるともいえる。「哲学者のいない国」と呼ばれている日本において、「今」こそ真なる哲学者の価値と意義と定義が求められている時期はないであろう。森信三や、アランのような真なる哲人が魂の教育をなされることこそが、新生日本建設の礎を創ってゆくのではないだろうか。

 あらゆる面において、すべては善くなってゆくしかないのである。



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