理念情報

 「哲学的コラム」
Japanese Dream Realization



「叡智の光明が生き筋を照らしてゆく」



 生き筋にも様々なものがある。老子に「敢えて退くに勇なれば活く」とあるが、時には退くことが生き筋となり、譲ることが生き筋となり、誤りと罪を素直に認めることが生き筋となることもあるのである。そして、その際には、進むよりも真に勇気が要ることもあるのである。

 執着や煩悩があればある程に、「敢えて退く」ことが難しいこともある。例えば、「貪」欲や「慢」心があれば、自我の執着や煩悩に執われて、退かなければならない時に退けないこともある。そして、本来の生き筋とは逆の道を選択して、本来無用の地獄絵を繰り広げてしまうこともあるのである。

 それは、自我の執着と煩悩がある故の迷いであり、智慧の光明の無い「痴」の状態であるといえる。本来あるべき智慧の光明が無いが故に、生き筋と天の御心を観じえず、無明の「四苦八苦」を繰り広げてゆく。そして、「六道輪廻」の世界を流転し、いつまでも「欲界」から解脱できないことになるのである。

 このような心境においては、「色界」も「無色界」も、真に「観」えることはないであろう。「無色界」においては、法身の真理が「観」えるものである。そして、法身の如来は、すべての地上界のすべてのものの中に真なる生き筋を「観」じ、真理の道、哲学の道をつけてゆくものなのである。それを光明荘厳の浄土という。華厳浄土という。そして、その哲学的叡智を真なる大悟といい、般若の叡智というのである。

 そして、般若の叡智たる絶対知を獲得してゆくために精進してゆくことによって、神仏の子人間、理性と良心を有した人間は、神仏への道、絶対精神への道を、「法楽」を、真なる幸福の糧として、淡々と歩んでゆくことができるのである。

 あらゆる面において、すべては善くなってゆくしかないのである。



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