![]() |
||
|
|
||
|---|---|---|
| 「哲学的コラム」 | ||
| Japanese Dream Realization | ||
| 「人物を見抜くとは」 |
| かつて、近代日本の礎を創った方々には、数多くの人物がおられた。例えば、坂本龍馬や勝海舟や西郷隆盛などである。この三者は、相互にお互いの器量を認めあっていたが、この人物の器量とは、何によって見抜かれるものなのであろうか。 その大切な観点として、存在感の大きさがあげられると思う。そこにその方が存在するだけで、風格がにじみ出ているような方というのは、それだけよく自らを修めてこられたことが裏づけられている。この風格というものは、いうなれば、その人が思っていたことの集積であり、その人の真相の一面である。 偉人といわれる方は、共通して一種の風格というものがにじみ出している。そのあり様は、人によって多少個性の差があるといえるが、その人物がそこに存在するだけで、何ともいえず心をうたれるものがあるのである。 無言にて人を感化するのが最上であるといわれるが、まさしく、人を無言に感化して止まぬ沈黙の内なる徳が、厳然として存在するのである。徳というものは、目にみえないようでいて、目の効く人には、歴然たる実力として見えるものなのである。 故に、真に徳のあるもの同士というのは、多くを語らずとも、お互いの風格としてにじみ出た目にみえぬ部分が、沈黙のうちに、何よりも雄弁にその人物の器量を語り、短い時間のうちにうち溶け合い、お互いに認めあう間柄となるのである。 この目に見えぬ徳がまだ見えない方の多くは、まだ充分に徳を修めておらず、まだ小人の段階にあるといえる。 しかし、徳を修めた大人物同士は、明らかにお互いの徳を洞察しあうのである。何故なら徳の輝きこそが、洞察力の真の源となるからである。悟りと般若の智恵が比例するといわれるように、徳の高さと洞察力は比例するものなのである。 この洞察力は、分析する力ではない。そうではなくて、相手の全体像、相手の本質を直視する力なのである。故に、徳ある人物は、同じ徳ある人物によってよく見抜かれることになるのである。 あらゆる面において、すべては善くなってゆくしかないのである。 |