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| 「哲学的コラム」 | |
| Japanese Dream Realization |
| 「短歌と境地について」 |
| 短歌というものは、日本語特有の形式によって生まれる芸術である。日本においては、古来より千年以上の歴史の中で鍛えあげられてきた一つの「道」であるといえよう。 一般的に「道」というものは、まず形から入って、形を覚えなければならないものである。その中に、私は、短歌という形式に対する芸術としての安定感を感じるのであるが、一定の習熟を得た後には、今度は「自分らしさ」を表現することが大切になってくる。 これは「道」と名の付く芸術一般についていえることであろう。形がしっかりしているが故に、自分自身を真に活かすことができるのである。秩序があるが故に、より一層個性を生かすことができるのである。 さすれば、真に自由自在となった個性は、何に向かうべきなのであろうか。それは、自己独自の芸術的感動というものであろう。しかし、何に対していかに感動し、それをいかに伝えるかということに関しては、無数無限なる道程がある。 私は、ここで特に大切な観点は、自分の芸術的感動がいかなる「境地」にあるかを知ることであると思う。すなわち「歌境」の自覚である。結局のところ、短歌を通して得るものは歌境であり、短歌を通して追究するものも歌境であり、短歌を通して磨いてゆくものも、己が精神(心情)の歌境なのである。 宗教が求めるものが「宗教的境地」であるとすれば、哲学が求めるものも「哲学的境地」であろうと思う。同じく絶対精神の文化遺産とされる芸術が求めるものも「芸術的境地」であり、その一部門である短歌も、かかる「芸術的境地」をひたすらに追究してゆかなければならないのである。 境地というからには、確かに何段階かの上下の段階があり、横の個性的広がりもあるはずである。こうした境地は、微妙に、確実に歌の表現の中にでてくる。言葉には言霊があると古来より言われてきているが、まさしく、歌境によって、言霊の響きが全く異なってくるのである。一見表面的には同じような短歌にみえても、よくよくその歌境の奏でる音楽を聴いてみると、聖俗とは無限の開きがあるものなのである。短歌の究極には、歌聖への道があるのである。 あらゆる面において、すべては善くなってゆくしかないのである。 |