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| 「哲学的コラム」 | |
| Japanese Dream Realization |
| 「古典的良書の本質について」 |
| 代表的古典となり、叡智の殿堂に据え置かれた本というものは、それらすべてが、決して同時代にベストセラーとして迎えられた訳でわない。すなわち、よく売れる本であることと、古典になる良書であることとは、全く別のことなのである。 同時代にベストセラーになっている本をよくよく観察してみると、人々のニーズにかない、時流にかなっているものであることが多い。それに比べて、売れにくい本というのは、人々のニーズに無頓着で時流に迎合していない所がある。 しかし、たとえ一時的にベストセラーになりえた本も、その名声の勢いをどの程度持続できるかとなると、大部分が刹那的な名声で終わってしまうことがほとんどである。あれほど売れに売れた本が、数年もたたないうちに本屋から姿を消してしまうのを見ると、無常の感をぬぐい去れないのである。当然のことながら、そうした本が古典となって残ることは皆無である。 それに比べると古典になって残っている本は、同時代において充分に認められないことが多い。それは多くの場合、内容が世情を超えて崇高であり、時流をはるかに超越している傾向があるからである。 そうした本は、同時代においては少数の同じく崇高で時流を超えた見識をもつ読者によってのみ理解され、そうした方の推奨によって少しずつ広まってゆく。そして、その歩みは深く静かであるが、確実に時代の深部に影響を与え、これを動かしてゆくといえるのである。 このように、古典的良書が古典的良書であるゆえんは、人々のニーズにかない、時流にかなったからではない。その中にどれだけの「真理」が述べられているかによるのである。 真理の書とは、人間の内なる理性に訴えかけるものである。すべての人間は理性を有しており、多かれ少なかれ顕現しているので、その書の「真理」性を遅かれ早かれ見抜くのである。 それも、時間空間を隔てるにつれて、その真理の書の偉大さがとてつもない偉大さであると客観視できてくるので、真なる古典的良書は、たとえ同時代に少数の理解者しか得られなくても、いずれ本来の立場である叡智の殿堂へと据え置かれるのである。 あらゆる面において、すべては善くなってゆくしかないのである。 |